2009年6月29日 (月)

新大経済学部岩清水ゼミ:治田さんほか

次のこと商店街について質問あって3人が來所された。

1.経営を始めた当時の流作場と現在の流作場の違い。 これについては本当に変わってしまった。ダイエー新潟店が全国で売り上げの上位を占めていた頃であった。その後伊勢丹と住み分けしながら新潟の商業活動を牽引してきた。逆に古町の商店街が衰退を叫ばれ始めた。流作場の万代商店街は、大きな波に飲まれた格好で売り上げの激減に悩まされ、更に後継者がいないのでぽちぽちとシャッターがかかりだして、無残であった。

2.不動産屋からみた現在の流作場の資産価値。 地価からすればその当時の3分の1に下落している。地価は商業の、或いは人口集積のバロメーターですから、それくらい人が集まらないと言うことでしょう。

3.商店街の各店舗同士の協力体制はあるか。 世代が変わり目にあるが後継者が各店舗にいないし、また商店に魅力がないので店主が跡継ぎと考えていない。ゆえになかなか現状維持の活動しか出来ないのが状況です。

4.商店街の活性化について若い経営者と昔からの経営者の方との意識の差の有無。 2代目が新店舗を出していくことではない。他地域からこの地域にあった商売を出そうと言う人が新参入するので意見の交換をする機会がなかなかもてない。いずれ何らかの会合をもって世代を超えたコミュニケーションの場がほしい。

5.経営していくうえでのモットー。 地域の人達の不動産にたいするいろんな相談をこころよく受ける店にしていくのがモットー

6.万代長嶺小学校跡地利用について意見。 新潟は漫画で全国に名がとどろいているが、違った分野での創造集団を新潟で育てるため、芸術創造村を万代長嶺小学校の廃校跡地を利用できないかと考えます。残っている教室を整備して事務所風の小割にし、その空間を安く若い人達に貸し出して、自由な発想で、家賃に悩まされず、集まれる場所に出来ないだろうか。

7.今後流作場をどうしていきたいか(どうあってほしいか) 地域の人、大きくは新潟に集まる人に「流作場」の意味を認識していってもらうよう活動をしたい。

以上の質問に対してお答えした内容です。

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2009年6月14日 (日)

流作場を考える仲間たち

平成21年6月10日 午後6時から新潟市コミセン206号室でメンバーの丸山、鶴巻、田所の3人と三社神社宮司:大橋様を招いて次のことを大橋様に質問しました。「流作場」について興味をお持ちの方へーーーー

(1)流作場についてどうお考えですか。 (*´v゚*)ゞeye 江戸時代には東西新潟(新潟島と沼垂)をつなぐルートの通過点であった。明治19年万代橋の架橋が完成すると一気に発展。流作場はその中にあって小さな農地ばかりの寒村であった。住人の買い物は沼垂へ行ったようだ。

(2)新潟市の中で流作場の位置づけ。 (*´v゚*)ゞeye 小さな島であった流作場が新潟市の玄関口となった。港、JRなど交通の要衝となってますます中心として発展を遂げていく。また県全体の位置でいうと「へそ」となった。

(3)歴史博物館に安倍玄的展示がない。 (*´v゚*)ゞeye 安倍家は流作場に対する功績者としてまつりあげられることn大変消極的で、抵抗があり、地域の発展は安倍家だけでなく、当時の地域の人たちと一体になって作り上げたこととの考えがあるようだ。

(4)新潟市の発展の中でいろんな土木事業や開拓事業などあるが流作場が抜けているようだが。 (*´v゚*)ゞeye もともとここは附寄島とよばれその後玄的村となった。しかし江戸時代長岡藩の許可で行った開拓後、信濃川の氾濫等でなかなか田の作収量が一定せず、課税されても、税金をまともに納めることができなかったようだ。そこで水損地として登録を願い出「流作田」として扱われた。この事情からもともと公には出来ない心理的負担がこの地域に当初からあって、現在にいたっても地名ともども日の目をみない宿命があった。ちいさな開拓事業でなかったが、歴史に残るよう日の目をみるような働きかけを大きく出来ない理由がその辺にあったと考えられる。

(5)安倍玄的が85歳から89歳までこの流作場の開拓に取り組んだそのエネルギーはどこからきたのだろうか。 (*´v゚*)ゞeye ここにくるまであちこちで開拓を手がけてきたが、必ずしも全てがうまくいったわけではない。70代で中條の紫雲寺潟開拓をてがけていたようだ。その後この地に来て長岡藩に2750両を上納し、開拓の許可をとって何人かと一緒に着手したようだ。高齢であるのに開拓の体力はどこから湧いたのか、これについてはもともと医者の心得があるので節制をして体力、気力を保持したのだろうと考える。また子供に玄的を補佐する40代の子供2人が携わって、この事業を成し遂げたのだろう。その2人は安倍三郎左エ門、安倍権太夫と聞いている。名前をこう書くのかどうかちょっと明らかでない。

(6)「流作場を」次の世代に何をどうのこしていったらいいか。 (*´v゚*)ゞeye土地の成り立ちと今日の繁栄を築くことが出来たのは、ここに暮らしてきた人たちがみんなで作り上げ、その事業に携わってきたと考える。その一人一人の想いを伝えていくことでないだろうか。また流作場という言葉は全国に何ヶ所もあるわけでないようだ。千葉県の方で聞いたことがあるが、大変貴重な地名と思います。

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2009年5月10日 (日)

学校の教育支援依頼で「商店街について」

なにかを生み出そう

S48年ダイエー新潟店が今のラブラ万代に開店し、その後S59年に伊勢丹が開店し、万代町通りの商業活動は明確な停滞時期に突入しました。以来策もなく今日に至っています。商店街もそうですが、この間全国トップクラスの売り上げをほこったダイエーが沈没してしまいました。現在ラブラ万代が営業しています。大きな移り変わりがありました。この日曜日の駅南のビッグカメラの開店で多くの方が押しかけたとニュースで報じていました。大きな戦艦に小さなボートで立ち向かう術は皆無でしょうが、小さなお店はお店なりに工夫をして特色のある商業活動を推進していくべきでしょう。その手立てはインターネットの活用だと思います。新しいものに挑戦する昔かたぎの商店のおじさん、おばさんなんて、ちょっとおかしいかもしれませんが、なにかが生まれると確信しています。

学校と地域

皆さんの学校は地域の人たちに支えられ、応援をいただいて立派な人に育てようと考えています。PTA、交通指導、自治会、民生委員など皆さんを守るため日々援助しています。

私が流作場をとらえて商店街活動の一つのテーマとしたのは、商店も学校も地域を構成している単位で、自分がいる場所には長い歴史があって、過去は今とつながりその中で人は自分の今を生き未来ができる事、この地で連綿と生きてきた人々の喜びや悲しみや怒りが、自分を守りはぐくむのだと。今皆さんが生活しているこの地「流作場」は信濃川を母として誕生して以来264年の歴史となりました。そんな気持ちを大人も子供たちももってがんばりたいのです。それは商店街の人たちが長い大きなうずに巻き込まれないよう、あきらめないよう進む手立てとしてインターネットを活用したいのです。

パソコンも操作したことがない人が大半です。今後機会あれば皆さんにパソコンの授業でもしていただけたら助かりますし、多いに意識付けになると思います。

私の卒業した小学校

私が卒業した学校は長岡市上組小学校でした。明治5年摂田屋の光福寺に学問所(寺子屋とおもいます)を設けてからすでに創立137年を迎えています。大変歴史のある小学校と思っています。ちょっと説明しますと長岡市の摂田屋といいますと昔の三国街道の通る国道で、酒造りの吉の川とサフラン酒、山又しょうゆなどがあって、学校の行きかえり、今でいいますとパン屋さんの匂い、それは酒造りの麹の匂いなんですが、その匂いをかきながら毎日学校に通ってました。また時々醤油屋さんの工場内を黙って友達と見学していたこともありました。それは故郷を思い出す懐かしい匂いと思い出です。

その学校の前身になった光福寺は、私の先祖が納まっている墓の檀家寺ですが、戊辰戦争の折官軍との戦いの前進基地となったお寺です。この寺の場所から長岡戊辰戦争の総督河合継之助が官軍:岩村総督との会談場所の小千谷:慈眼寺にでかけ、榎峠での戦いの指揮をとった場所でした。小学生の時はもちろんわかりませんでした。しかし年齢が経過し地元を離れてみると、それが懐かしく誇りある子供の体験となっています。みなさんもこの地域を作ってきたいろんな方がいっぱいおります。そんな方のいろんな話を聞いてこれからの自分の将来の糧としてください。

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2009年3月29日 (日)

流作場 「玄的の念吉亀」 伝説、祟り

玄的の念吉亀
「新潟古老百話」編者:鏡淵九六郎
此処は安倍様の先祖の玄的というお医者が一番先に住宅を構えたので、玄的村の名前が起こった。
大川の流れに土地が崩れて、安倍様も元屋敷から現在のところへ移ったのだそうで、私の幼い時分土地がかける?ける盛りで、時々法螺貝を吹き人を集めて家の傾斜を防いでいた。本間善蔵の家などは今は大川の真ん中になっている筈。久蔵、卯助、念吉、半四郎、高屋利助などみな?壊のために今のところへ移ったのである。昔は石を投げると新潟までとどいたのであった。斯うして村地がどんどん崩れるのは、念吉亀の仕業と噂されたもので、その由来は昔念吉という酒癖の悪い男が、作物や生り物を盗み取るので人が咎めると「ハジケルな」と手当たり次第に盗むものだから、一晩竹薮に縛って置いたところ、翌日見ると蚊が生りさがっているにもかかわらず、懲りずに悪事を働くので村中相談の上、念吉の手足を縛って空き俵へ詰め、大川へ投げ込んだが、その時念吉は大亀になって祟ってくれるといったとか。それで玄的が崩れるのだと聞かされていた。之は私の生まれる以前にあった事だというが、玄的に津波があったのは百年以上のことで、新潟沼垂領分争いの時、大川の上流から樽を流して見たところdんどん古信濃川へ流れいるので、ここも新潟の領分ときまって、新潟同様天領となり新潟扱いになるようになった。

小竹 重吉 翁

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2009年3月15日 (日)

小学校で 教育支援依頼「キャリア教育」 第2講 まちで何が

商業活動について

経済活動はその時代にあった物を見出して、消費者のニーズに合わせていかなければなりません。それは外部との接点をもたないとその情報を仕入れることは出来ません。いつも同じ人と同じ事を話し、同じ事をしていたら進歩しません。皆さんの勉強と同じことが求められます。ニーズを求めるにはこちらから情報を発信しなければ、相手から情報をいただけません。そのために商店はいろんな手段をもっています。例えばチラシ、広告などの宣伝活動です。毎日毎日新聞に入ってくるチラシ広告はその量は膨大です。お母さんたちが生活の助けに安売り店のチラシをみて買い物に行く、こんな買い物行動を誘発するためチラシがまかれます。先日開店した新潟駅南のビッグカメラのチラシなど畳半畳分の大きさです。また売れないマンションの値引きチラシが毎週のように新聞に挟まれます。この広告のチラシの山の中に、小さい商店のチラシなどは埋もれてしまいます。何を外部へ情報発信して、その反応を探ることが出来るか、安価で有効な広告手段はなんだろうか。この視点に立てば私はインターネットと考えています。

インターネットのこと

インターネットは広く多くの人に自分の店の活動を表示することが出来ます。しかしインターネットの情報の海はあまりにも膨大で、外部に宣伝してもなにか特色がなければホームページを見てくれません。例えば、床屋さんに行くのに皆さんは最初お父さん、お母さんに連れられて近所の床屋さんに行ってると思います。ある程度物心ついてしゃれっ気が出てくると、この床屋さんは何が得意なんだろう、どんな髪型にするんだろうか、もしかすると終わってみると気に入らない髪形になってるといやだなあー、と多いに不安をもちながら床屋さんの鏡の前で、最後の仕上がりをじっと待ってます。特に初めて行ったお店など不安がいっぱいです。そこの床屋さんがどんな人で、どんな顔なのか。どんな話をするのか。そんな時最初にその前提のそこのお店の知識があればいいと思います。なんらか自分を表現する手段としてインターネットのホームページは大変有効です。また自分の仕事が今の社会の中でどんな位置づけをされているか、その情報解析するのには大変優れた手段を秘めています。小さな商店が外部に情報を発信するのがどんな稚拙なことであってもいいと思いますし、その次はどうすればいいのか、自分の店がお客様のニーズにこたえるには何をするべきか、日々の活動をそれぞれが綿密にチェックできて、明日はどう展開しようかと考える材料を提供してくれると考えます。

今回のインターネット商店会には22社が参加してくれました。

次はなにかを生み出そう。地域と学校。

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流作田と流作場

附寄島は寛延三年(1750年)に開墾は終了しました。完了した土地は標準石高804石1斗6合という美田となったが、度々の洪水で実収高はせいぜい500石程度で租税額決定し難い「流作田」となった。この「流作田」が訛っていつしか流作場となって土地台帳までこれに決定してしまった。これが真実か?

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2009年3月 5日 (木)

小学校で教育支援依頼「キャリア教育」 第1講

―自分たちの街で今ー

於いて:地域の小学校

2009年2月24日

皆さんこんにちは

私は、万代町通りで不動産屋の仕事をしております。田所といいます。

学校の正門を出て万代町通りの団子屋さんの向かい側です。

IT商店会を立ち上げた訳

今日は、私が商店街のお店に声をかけて昨年インターネット商店会、名称は「流作場The万代IT商店会」を立ち上げました。その動機を皆さんにお話いたします。

この商店街、そうですね東大通の流作場交差点から栗の木バイパスの沼垂四つ角交差点までの万代町通りは明治19年の一代目「萬代橋」が架橋されたおりその付帯工事として新潟県令篠崎五郎が流作場新田小島から沼垂町西横町に至る間に県道として開設した道路です。

現在まで123年に至っています。もちろんその当時は砂利道でしたでしょう。日本の国の発展とともに徐々に道の両側に商店と住まいができ、歩んできたといっていいでしょう。私は一人の商業活動をするものとしての視点からお話いたします。

万代町商店街のいままで

1966年(昭和41年)当時の様子は県信組沼垂支店から栗の木側までまさに商店がびっしりはりついて壮観な商店街でした。日本の国が高度経済成長をまっしぐらに突き進んでいく時代でした。皆さんにお配りするコピーは、沼垂公民館の方が当時の住宅図から作り上げた商店街の地図です。当時の商店が上の段に、現在の商店街の様子が下の段に表示されております。下の段の黒丸が現在営業しているお店、白丸のところがシャッターがおりているか、住宅になっているところです。上の段を見てみると99%が黒丸で営業しているお店でした。新潟で一番の繁盛店がここに集中していました。お店の営業品目を見るとその当時の生活がわかります。皆さんが学校に来るとき通てくるアーケードの商店街は昔こんな状況でした。初めからシャッター通りではありません。いまこの商店の一つ一つの品目が大型ショッピングセンターに集中して配置されています。車社会にマッチする対応ですね。隔世の感があります。昭和40年代からすでに44年が経過するうち社会の構造変化に対応しきれない小規模の商店が壊滅的な打撃を受けた結果です。44年も経過すればみんな年をとってしまいます。どうすればいいか、どうやったらいいか、と思案あぐねているうちに時代がどんどん変わっていく状況となってしまいました。

次回は(2)商業活動について 

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2009年3月 2日 (月)

流作場歴史講座(2)

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流作場歴史講座

2.流作場の語源(本当の歴史的意味)
 流作場は江戸時代の寛文、延宝の頃より信濃川の中洲にできた大小無数の島嶼が長い願い年月を経て寄り付いて大きな島を形成した。
新潟町と沼垂とでその帰属を争ったが幕府評定所の採決により当時親藩大名であった長岡藩の領する新潟町のものとなった。[元禄12年4月26日湊及び島嶼の支配権を長岡藩が得る]
当時この島嶼を附寄島または、新潟島から見て向島と呼ばれていた。
島に住む者無く、川風に葦の穂がなびき新潟町の漁師が網を干したりしている場所にしていたという。鮭や鱒を獲る時には漁場として活用していた。
やがて、長岡藩六代目牧野駿河守忠敬により延享三年八月(1746)安倍玄的、近江屋曾平、寺山幸助、中倉源兵衛、関川助市の五名に二千七百五十両を上納せしめて開墾を命じた。安倍玄的が一人これに専従して寛延元年(延享五年改元して1748年)一応の開発の体裁を整えた。
この時の申付け書に「右は此度新潟向島流作場新田開発に就き申し付け候云々」とある。然し、この時点では流作場の名前は正式な名前ではなかった。江戸中期に於いて堤外地などの水損地で一定の収穫高をみることが出来ない土地を公的に流作場、又は流作田と言い、この様な呼び方で規定されていた。附寄島が正式なよびなであった。
長岡領越後国蒲原郡附寄島新田となった。また、通称「玄的、玄的村、玄的新田」という。
天保十四年(1843年)六月十一日幕府の命令により新潟浜村(新潟町)の上地を行った。上地とは幕府に領地を返上することである。
此れに続いて天保十五年、改元して弘化元年(1844年)に附寄島も上地が命じられた。弘化二年四月四日上地された。
弘化三年(1846年)上地後の村名が決まった。その肩書きは新潟浜村内流作場新田と決められ天領となった。
村の名前を付けると「附寄島」とした場合島は一定の広さと収穫高がみられるので年貢高が多くなる。そこで村人は相談の上、水損地で一定の収穫高が見込めない所であることを申し願って、この村名が認められたと言い伝えている。

3.沼垂と流作場
 江戸時代幕藩体制の時、流作場は徳川幕府の親藩大名長岡の牧野家の領地となり、のち水野忠邦が進めた天保の改革の国防の視点から上地されて幕府直轄の天領となった。夷狄打ち払いを名目にした幕府の威勢回復の財源を得るため新潟港を幕府領にしたのである。
のち明治維新(慶応3年・1867年)という革命により幕府は倒れ新しい国造りが始まった。幕藩体制が崩れ中央集権の幕府が形成された(廃藩置県)。明治5年(1872年)新潟県は大区、小区を設ける。流作場は第一大区(新潟町)小五区五番組に属する。明治九年(1876年)六月郡区改正により、第一大区小五区のうち五番組を分割して第二十一大区小二区に付属し、更に十二番組を置く。
越後国蒲原郡流作場新田となる(明治9年)。
明治十二年(1879年)四月二十八日新潟県が郡区町村制を実施する。
流作場は新潟から離れて沼垂の大字となる。
中蒲原郡沼垂町大字流作場新田となる。ここで沼垂の一大字となる。
明治二十二年(1889年)四月一日市制・町村制が施行される。
沼垂町と流作場、蒲原、長嶺の三ケ村合併して新しい沼垂町を形成する。
大正三年(1914年)四月一日沼垂町が新潟市に合併して新潟市沼垂となる。
ここから新潟市流作場となった。
明治時代に入り約四十年間沼垂町の大字としてその組織に所属していた事。
人口も多く商家も栄えて立派な街として整えられていた事、又、江戸時代流作場より約五十年余り前に街を形成して、港町として組織が完成していた。現在の東新潟の中心であったことから萬代橋東岸はすべて沼垂と認識する人が多い。それに比して流作場は萬代橋がかかるまで完全な農村であり、人家も五十軒余りで人口も少ない寒村であった。しかし生活は自然の恵みに恵まれ比較的豊かな村であった。水害は多くあったが、その災いをもたらす信濃川は鮭、鱒などの川漁を恵み、繁茂する葦や萱は屋根材、壁材などの需要が多くそれによる収入に恵まれた。寄り付く肥沃な土もまた農業の収穫も高めた。明治三十七年(1904年)信越線の開通によ交通の利便を増し、今日新潟市のみならず県の中枢的発展を遂げ佐渡航路、新幹線、空港にも近く前途益々発展の要素を秘めている。然し、中心となる駅前また、万代町界隈の再開発、或いは新しい発想による町の構造改革、中心商店街の発展策が望まれる。

4.地域と暮らしと歴史について
萬代小跡地は地域発展のために
賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶという諺がある。
歴史は経験の積み重ねによって得た、いわば情報の集積である。この諺は愚者の膨大な経験による情報を機能的に且つ、無駄なく役だてるという先人の教えであると考えるものである。
歴史を軽んずる国の民族はその心の中心を失い、やがて社会は疲弊し、ついに国は滅びることになる。此れもまた世界情勢をみれば明らかなことである。歴史は国、社会、地域、家族、個人のあり方、生き方を映す鏡である。
このように考えるならば先人の知恵に学び、現在に役立て、そしてすべての人達が調和して暮らせる地域社会作りには各自が権利と責任に基く関わりを持たなければならない。特に戦後は公が住民の生活の総てに責任をもつといういうことから、個人の権利主張が強くなり、少数意見の過剰な権利尊重によって起こる大衆迷惑の状況もある。町おこしにはこの様なことが大きな障害になることも散見される。昔にもこの様なことは度々起きていた。今は果たしてこの様に行くかどうか疑問の点が多い。そして世のため人の為と利害を捨てて働く人を変わり者と見る目が多い。
地域のため、社会のため、将来ある子供たちを育てるため、その昔、安倍邦太郎という人が自分の所有する田畑を提供して萬代小学校を市に働きかけて建設せられた。やがて住民の数が増えて手狭となり長嶺小学校が作られた。近くは児童の数の減少により両校が合併して萬代長嶺校が作られた。
安倍家は流作場開拓の祖にして地域の素封家と雖も自ら財産の一部を地域の為に提供するという事は強い郷土愛の発露といわねばならない。
現在、萬代小学校の跡地は地域の発展の為、、また将来住むであろう住民の為に活用されるべきであろう。其れは現在この地に住んでいる人々の財産であり、それを生かしてこそ先人の志を生かし、歴史の顕彰になると思うのである。

この原稿は流作場、三社神社宮司:大橋 さまから許可をいただいたものです。

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2008年11月18日 (火)

流作場歴史講座(1)

三社宮司大橋様の流作場講座

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平成20年10月30日PM2:00三社神社で宮司:大橋様インタビュー
聞き手:事務局:田所暁雄、JUNK:飯田洋子

1.なぜ消えた流作場の地名
昭和30年代後半より新潟市の中心街は固より郊外へ新しい住宅地の開発が進められていた。殊に新潟地震(昭和39年6月)以降益々その傾向が強まった。以前から新潟市は行政上の効率化を進めていたが、現実的な問題として旧市内の地域、町内会の線引きを見直して住居表示改正の方針を進めた。初め新潟市から進め、やがて東新潟へ移る方針であった。地域自治会や商店街などの代表的人たちが集まり討議された。此れまでは何事も西新潟の有力者の働きかけで、新しい事、また商店街の街作りなどは西新潟が優先されていた。常に東は西に遅れをとっていた。古く遡れば江戸時代の長岡藩・新発田藩の時にまでそれを見るこそれはそれは、とができる。(蛇足)。しかし西新潟の人達は挙ってこれに反対した。其れに就いては一番に伝統と歴史の深い街の町名等についてイメージ等損なう事。商店や事業所の事務関係書類が全て用いることが出来なくなる事。つまり伝票一枚でも印刷されている町名などが変更になれば全て破棄しなければならない事。まだ外にも理由はあると思われるが要約すればこんな理由が述べられている。中々捗らなかったが東新潟の地域で承知すれば西もこれにつずくという意見がまとまり、新潟市は東新潟の自治会、地域住民にたいして住居表示変更を受け入れるよう申し入れがあった。
東新潟もこれを拒否して自治町内会では、度々集会を開き侃々諤々の議論が戦わされた。しかし新潟市のたっての要請と、将来新地域の編成、郵便物など連絡、通信の利便又、新潟駅前などの新開地の町内会もあり、更に東が先鞭を付ければ西もこれに続くということをかん考えてこの要請を受け入れた。地域割り、町内会の再編成など難しい問題が続出して、彼方此方の町内会、自治会で寄り合い集会がもたれいろいろの問題が議論された。旧町内会をそのまま残し、新しい区割りの自治会に所属する等の事も新潟市は苦し紛れに容認した。
一例をあげれば現在、三和町を表示しながら旧神明自治会を形成している三和町の一部、三社神社を界隈と万代5丁目の大半でつくる神明自治会が認められている。しかし小学校の児童にとって自治会ごとの活動に戸惑いを生じた。それは三和町の児童は集会を行いますという案内がされても神明自治会の児童は部外者となり又、その逆の状態も生じた。
この時流作場発祥の地である処から神明町と決めて市役所へ届け出たところ、既に山ノ下から神明町の名前が届けられていて受付がされなかった。町名決定に無駄時間を費やした結果である。そこで旧農家の人達は玄的元町と言う名町名を考えたが新しく住む様になった人達には意味がわからず、また開祖安倍家の当主より先祖の名にかかわらない様にとお話があった。何の意味もない緑町などの名も挙がった。いろいろな話し合いの結果、流作場の名前がよいのではとの話が出て市へ打診したところ未だ出始めのコンピューターで全市のデーターを管理する方針であり、長い町名は入力できないとの理由で取り止めとなった。仕方なく最終案として、天明町の一部、神明町の一部、居村村の全部が集まって一つの自治会を作るのだから三つの町内が合同し、仲良く、平和な地であることを願って三和町となった。併し、古くからの町内会の絆は深く、神明自治会だけは三和町の町内会活動とは別行動を現在もとっている。(新潟市の妥協の産物である)。此れだけ東新潟の人達が苦労して新潟市の要請を受け入れたのに、西新潟の人達は此れを実行せず今日に至っている。
ここで東新潟では町名の変更と何番何号という表示に変わった。

此れが施行されたのは昭和43年4月1日のことで、東新潟地区はそれまでの地域町内割の改変がなされ今日に至っている。流作場の歴史ある地名が公の表示として用いられることは永久に途絶えた。其の理由は町目の前に流作場という文字を入れた場合長すぎて、コンピューターに入力できないとのいうことであった。因みに山ノ下も同様の理由で地域名称は削られている。

流作場という名前が残っているのは、流作場五差路と水島にある流作場保育園くらいである。暫く前のことであるが、各地の珍しい名称を探訪して歩いている横浜の人が神社に訪ねて来られたことがあった。そして言われたことは全国的にも珍しい流作場の地名をなくされたことは誠に残念な事をしたと言い置かれて帰られたことがあった。

以上の内容は大橋宮司様のご好意により寄稿していただいた文をそのまま許可いただいて掲載しております。

次回は流作場の語源を送ります。

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2008年10月25日 (土)

流作場の沿革 NO1

流作場の沿革

寛永8年9月20日(1,631年)
信濃川と阿賀野川を結ぶ細流加茂屋堀が洪水のため決壊した。両大河の流れ港口において決壊した。
元禄10年(1,697年)
信濃川13を数える中洲島の占有権をめぐり新潟と沼垂争う。(第2回港訴訟)
元禄12年裁決。新潟勝訴。
延亨3年(1,746年)
安倍玄的(白河領五泉領民)、近江屋曽平、寺山幸助(以上新潟町民)、中倉源兵衛(高橋村民)、関川助市(片倉村民)の五名長岡藩へ信濃川の中州の開発を願い出る。長岡藩は2,150両を下受金として上納せしめて許可した。これが流作場のはじめてであり、この中洲島を当時は附寄嶋又は向島と呼んでいた。
翌4年
附寄嶋争訟。附寄嶋の占有権について沼垂側より幕府へ出訴。新潟と争う。
延亨4年9月評定所の裁決は新潟争訴。これによって沼垂は港津の権利を完全に失った。同年4月鎮守として神明宮を奉祀した。(後の三社神社)、御祭神は大日霎貴命(オオヒルメムチのミコト)
地方は曽根代官支配、戸籍その他は新潟に属す。(一村両制)
寛延3年7月
附寄島の一応の開発が完了した。
長岡藩の検地が行われ、元来水損地の故を以て永検地の流作田との決定を見た。
長岡藩越後国蒲原附寄嶋新田となった。開拓者安倍玄的の名にちなみ玄的または玄的村、玄的新田の通称があった。
流作場の上知
天保14年(1843年)6月(川村清兵衛 新潟奉行)
長岡藩より新潟が幕府へ上知される。
弘化2年(1845年)3月
寄居村と共に附寄嶋八百八石も上知せられた。同年3月検地が行われた。
弘化3年6月村名肩書決定
新潟浜村の内流作場新田と肩書きが決定した。

(弘化3年6月より正式に用いられる。)
爾来明治元年幕府の崩壊まで凡そ23年間天領となった。

次回へ

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